なぜこのプロジェクトを考えたかといいますと、私の場合38年7ヶ国の赤十字で働いてきましたが常にその赤十字の中でたった一人の日本人でしたので何とかして自分の住んでいる国と自分の国「日本」とを結ぶプロジェクトをはじめたい、と考えました。
例え障害を持っていても人間的に非常に立派な方は沢山居られます。でもなかなか自由によその国へ出かけ見聞を広め友達を作ることは難しい場合が多々あります。
一方、障害のない人が障害のある人たちと親しい友となることが、どれだけ得る事の多い大切なことか私の長いボランティア生活を通じよくわかっていました。そこで、障害のある青少年と、ない同年輩の青少年を1対1のペアーにして出発の前から帰国する間で寝食すべてを共にしてお互いの理解を深めるプロジェクトを考えました。
障害を持つ人と介助者が1対となってひとつの目的に挑戦する。 一搬の人に障害を持つ人への理解を深めてもらう。 青少年に例えどんな困難に会っても強く生きる自信を培ってもらう。 他国の文化、生活への理解を深め強い友情を結ぶ機会にする。 一生涯心にとどまる教育的機会と捉える。
このプロジェクトを始めた個人的な理由としては、私の祖父が、今から18年前にこの英国へ勉強に参り帰国後衆議院の第1回選挙より国政に参加、15回当選の後88歳でなくなるまで貴族院で日本の国に仕えた人でした。
又、父は、慶応義塾卒業後すぐにシンガポールにわたり、33年間英国人とともに鉄とゴムの仕事をし、またやはり祖父同様、衆議院議員として働いておりました。しかし1944年国会終了後再びシンガポールへ飛ぶ途中連合軍の飛行機に追われフィリピンの上空で打ち落とされなくなりました。
祖父も父も長い間英国との友好を大切にしていましたのに大変皮肉なたいへん悲しい出来事でした。このような私の家族のことを聖心時代にご存知で居られた皇后さまが、私を赤十字で働かせてみようとお思いになり橋本先生を紹介して下さったのだと思います。
そして、2002年はじめに日本政府からこれまでのもみじの功績に対し「外務大臣賞」を頂きました。これまでに交流したもみじは、164名にのぼります。このうち、障害を持つひとが2名結婚し、1名の全盲の英国、青年は、来春より慶応義塾博士課程に入学予定です。 1名の英国青年は、脳腫瘍のため死亡してしまいました。最後までもみじのアルバム作りに余念のない青年で沢山のもみじの友達に惜しまれながら亡くなりました。
1991年(第1回)日本から50名の障害のある人と障害のない青少年とが英国を訪れました。
1992年(第2回)英国メンバーが訪日し鎌倉を歩きました。
1997年(第3回)日本グループがオックスフォードの大学に3日間滞在し、簡単な講議を受けたり、世界初の子供のためのホスピス「ヘレンハウス」を訪問しました。
1998年(第4回)英国グループは、大阪では舞洲活動センターにて合同運動会に参加して大阪の赤十字ボランティアや障害者たちとも楽しい思い出をつくることが出来ました。奈良では東大寺観光を楽しみ、東京では赤十字のイベント青少年赤十字75周年の行事(7550)に参加させていただき他国の青少年とよい交流ができました。
2001年(第5回)英国で再び行われた日本紹介イベント 「Japann2001」では、筑波大付属桐ヶ丘養護学校の生徒たちを招き大運動会をロンドンのハイドパークで行いました。
2002年(第6回)電動車椅子サッカーのチームを日本につれてまいりました。これは2001年に日本からサッカーチームが競技を英国に紹介してくださいました。そこで日本でよくこの競技を学び正しく英国の障害を持つ青少年に広めようということで訪日いたしました。
2004年(第7回)ウインザー城の聖ジョージチャペルで「もみじコンサート」をさせていただくことが出来ました。日本からのメンバーも演奏を披露いたしました。
2005年(第8回) 「もみじプロジェクト」の15周年という事もあり、オックスフォードの「ヘレンハウス」と2年前に出来た青年達のホスピス「ダグラスハウス」の6名の難病患者さん達を日本へ連れて行く事になりました。
2008年にはイギリスでロンドンチャンバーオーケストラのコンサートに、チャールズ皇太子とカミラ妃をお迎えしました。
2009年(第9回) 東京、大阪で開催しました。前回同様「ヘレン&ダグラスハウス」から6名の患者さん達を日本へ連れてまいりました。聖路加看護大学講堂にてダグラスハウスについて学ぶ講演会を開催し、後半は大阪を訪問して観光や交流を行いました。
2018年にはイギリスでロンドンチャンバーオーケストラのコンサートに、チャールズ皇太子とカミラ妃をお迎えしました。